The BLITZ KIDS LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980-1981 【Alto e Diritto // exclusive】【LARGE 1/20】After the rain LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1975 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 1/20】 Michelle LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1988 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 2/20】ミッシェル ミシェル Diana Spencer LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 1/20】ダイアナ妃 ダイアナ妃 ウェールズ公妃ダイアナ Diana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセス Joe on the Tube LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1981 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 1/20】 Joe with a roll up LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980 ジョーストラマー ロンドン 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット ハービー山口 HERBIE YAMAGUCHI 写真家 Thames LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 テムズ川 ロンドン ハービー山口 1983年 イギリス England イングランド 写真家 写真 http://www.herbie-yamaguchi.com/ オリジナルプリント Portrait Joe 地下鉄のジョー パンク Punk 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット 革ジャン レザージャケット ライダースジャケット モヒカン 鋲ジャン 1983年イギリス総選挙 イギリス名誉革命史 United Kingdom General Election, 1983 ハービー・山口は写真家、エッセイスト。 東京都大田区出身。 作家名の由来は、自身が傾倒していたジャズ・フルート奏者のハービー・マンから。山口 芳則 「LONDON AFTER THE DREAM」(流行通信社 1985)「LEICA LIVE LIFE」福山雅治写真集 (ソニーマガジンズ 1994)「代官山17番地」(アップリンク 1998)「尾崎豊」(光栄 1998)「DISTANCE」福山雅治写真集 (アミューズブックス 1999「TIMELESS IN LUXEMBOURG」 (ルクセンブルク大公国大使館 1999)「bridge22 LP」山崎まさよし×ハービー・山口(ソニーマガジンズ 2001)「LONDON CHASING THE DREAM 」(カラーフィールド 2003)「peace」(アップリンク 2003)フジテレビドラマ「優しい時間―富良野にて」(フジテレビ出版 2005)「HOPE 空、青くなる」(講談社 2003)代官山17番地 Eye of Johnny TOKYO / HERBIE YAMAGUCHI 1983 【Alto e Diritto // exclusive】【MEDIUM 1/20】東京 ジョニー Joe on the Tube LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1981 Early Autumn LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1986 1986年 ハービー山口 女の子 農屋 庭 ロンドン North England / HERBIE YAMAGUCHI 2006 2006年 ノーザン・イングランド 北イングランド、または単に北としても知られている北イングランドは、イングランドの最も北の地域です。これは、北東、北西、ヨークシャーアンドザハンバーの3つの統計地域に分割されています。 Jimmy Pursey Sham69 LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 ジミーパーシー 愛知 名古屋 Alto e James Timothy Purseyはイギリスのロックミュージシャンです。彼はパンクロックバンド、シャム69の創設者兼フロントマンであり、1976年以来、ソロアーティストとしての楽曲のリリースに携わってきました。Yesterday LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1975 Thames London / HERBIE YAMAGUCHI 1984 テムズ川 ロンドン After the rain LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1975 ハービー山口 Eye of Johnny TOKYO / HERBIE YAMAGUCHI 1983 Johnny in the spot light LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 ジョニーロットン スポットライト ロンドン 1983年 撮影 ハービー山口 写真家 Johnny Rotten ジョニー・ロットン John Lydon ジョン・ライドン パンク・ロックバンド、セックス・ピストルズのリード・ボーカルを務め、解散後はパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成した。 ジョニー・ロットンという名前は彼がセックス・ピストルズに加入したとき、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズが彼の歯の汚い状態を見て「腐ってる!お前の歯、腐ってるぞ!(You're rotten! Look at you, your teeth are rotten!)」と発言したことがきっかけで彼のニックネームとなった[1]。 セックス・ピストルズセックス・ピストルズ時代 (1977年) 小学生時代とは打って変わり、中学生からのライドンは退学処分を受けるほどの不良となり、10代後半はマルコム・マクラーレン(デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドが共同経営者)のブティック「Sex」に頻繁に出入りするようになる[3]。この店を溜まり場としていたライドンをリーダー格とする不良グループ“ジョンズ”は、メンバー全員の名がjohnであることから名づけられた。1975年にマクラーレンがアメリカのバンド、ニューヨーク・ドールズとの小ツアーから帰り、スティーヴ・ジョーンズやポール・クックと共に新たなバンドの結成を模索していたとき、ライドンが現れた。ライドンは「I Hate」とサインペンでなぐり書きされたピンク・フロイドのTシャツを着ており、店内でのオーディションでアリス・クーパーの「エイティーン」を歌った[3]。そしてバンドへ加入、バンド名はセックス・ピストルズに決まる。ピストルズは「アナーキー・イン・ザ・UK」や「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」などの歴史的な曲を発表し、パンクの有名バンドとなった。曲は主に、メンバーのグレン・マトロックが書いていた。ピストルズの後期、ライドンは、ヘロイン中毒である親友のシド・ヴィシャスの薬物治療の手助けをするが、結局シド・ヴィシャスはヘロインをやめられずまともに演奏できる状態ではなくなった。メンバー間の不仲も頂点に達し、バンドは最悪の状態になり、1978年1月14日、アメリカツアーのサンフランシスコ最終公演を最後にライドンは脱退を表明。ラストライブの最後に「騙された気分はどうだい」と言い放っている[7][8]。脱退表明時には「ロックは死んだ」と宣言した[9]。後に、シド・ヴィシャスと恋人のナンシーは死亡している。Brian Setzer Stray Cats LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1981 ブライアン セッツァー ストレイキャッツ ロンドン 1981年 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット ハービー山口 HERBIE YAMAGUCHI 写真家 Thames LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 テムズ川 ロンドン ハービー山口 1983年 イギリス England イングランド 写真家 写真 http://www.herbie-yamaguchi.com/ オリジナルプリント Portrait Joe 地下鉄のジョー パンク Punk 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット 革ジャン レザージャケット ライダースジャケット モヒカン 鋲ジャン 1983年イギリス総選挙 イギリス名誉革命史 United Kingdom General Election, 1983 ハービー・山口は写真家、エッセイスト。 東京都大田区出身。 作家名の由来は、自身が傾倒していたジャズ・フルート奏者のハービー・マンから。山口 芳則 「LONDON AFTER THE DREAM」(流行通信社 1985)「LEICA LIVE LIFE」福山雅治写真集 (ソニーマガジンズ 1994)「代官山17番地」(アップリンク 1998)「尾崎豊」(光栄 1998)「DISTANCE」福山雅治写真集 (アミューズブックス 1999「TIMELESS IN LUXEMBOURG」 (ルクセンブルク大公国大使館 1999)「bridge22 LP」山崎まさよし×ハービー・山口(ソニーマガジンズ 2001)「LONDON CHASING THE DREAM 」(カラーフィールド 2003)「peace」(アップリンク 2003)フジテレビドラマ「優しい時間―富良野にて」(フジテレビ出版 2005)「HOPE 空、青くなる」(講談社 2003)代官山17番地 「1980年前後のロンドンだった。パンクロックが徐々に影をひそめ、とって代わるように現れたのがニューロマンティックスというムーブメントを掲げた若者たちだった。彼らはデビット・ボーイを敬愛し、衣装やメイクに可能な限りの工夫を凝らし、毎週木曜日の夜に、コベントガーデンにあったクラブ、ブリッツに集まって来た。その彼らをいつしかメディアはBLITZ KIDS(ブリッツキッズ)と呼ぶようになった。彼らの多くはアートスクールに通う学生や、将来ミュージシャンやデザイナーになることを夢見ていた若者たちだった。パンクロックが社会への反抗をアグレシブに表現する形態だとしたら、ブリッツキッズはパンクとは違うニュアンスで、自分の世界観や主張を表現する形態だった。それはアーティススティックでポップで洗練された感覚だった。ムーブメントの初期には彼らは広く世間に名乗り出ることはせず、全く秘密裏にこのブリッツに集まっていた。例えば真冬なのに一晩中入店の列に並んでも、彼らのリーダーであるスティーブ・ストレンジの知り合いでなければ入店は許されなかった。幸い私は、彼らと親しい何人かの友人の導きがあり入店を許されていた。そのことについては感謝の気持ちしかない。彼らの作った音楽はシンセザイザーを多用した未来志向のニュアンスに富み、80年代の中期までに一時代を築き上げた。私は普段モノクロームフィルムで撮影をしていたが、彼らの使う色の大切さを知りコダクロームというカラーフィルムを使用した。当時、私の生活はかなり困窮していて、何人もの友人の家を居候として転々と渡り歩るき、一日3食を規則正しく食べることはほぼ無理なことだった。コダクロームを買う出費は自分にとってかなりの痛手で、このブリッツに赴いても、一晩で20カット程を使うだけで、一枚一枚を大切に撮影していた。デジタル時代の現在なら何千カットと彼らを撮影しただろうが、実情はコダクロームを20~30本程消費したのが精一杯いだった。そんな理由で現在完璧な状態で残っているオリジナルのカラースライドは両手に乗るだけの分量しかない。彼らは陽気に踊って飲んで、ブリッツの夜を楽しんではいたが、中核にいた彼らの一部は将来アーティストに成長するべく、お互いに刺激し合い自分を磨いていたのではないかと思えた。1970年代の中期に始まったパンクのムーブメント、それに続くこのムーブメント。当時のイギリスの若者は多かれ少なかれ、この二つのムーブメントを通過し、洗礼を受けて成長したのではないだろうか。この時代のロンドンが、カルチャー的には一番面白かった時代だったと多くのイギリス人が認める所以だ。事実このブリッツに集まって来ていた若者の中から、数年後には世界的に目覚ましい活躍を始めたミュージシャンやアーティストが数多く排出された。この時代のロンドンの素顔を、写真家として目撃出来たことの幸運を今でも噛みしめるのである。同時代に撮影した風景を折々のページに挟んでみた。当時のロンドンの空気感が伝わればと願っている。」SUPER LABOによるハービー・山口の5冊目の写真集。 東京神保町「SUPER LABO STORE TOKYO」にて、2021年作品の展示。「1980年前後のロンドンだった。パンクロックが徐々に影をひそめ、とって代わるように現れたのがニューロマンティックスというムーブメントを掲げた若者たちだった。彼らはデビット・ボーイを敬愛し、衣装やメイクに可能な限りの工夫を凝らし、毎週木曜日の夜に、コベントガーデンにあったクラブ、ブリッツに集まって来た。その彼らをいつしかメディアはBLITZ KIDS(ブリッツキッズ)と呼ぶようになった。」It was London around 1980. Punk rock was on a slow decline, gradually being replaced by the emerging New Romantic movement and its young advocators. They adored David Bowie, exercised as much ingenuity as possible in costumes and makeup, and gathered at the Blitz club in Covent Garden every Thursday night. The press eventually came to call them the “Blitz Kids

The BLITZ KIDS LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980-1981

The BLITZ KIDS LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980-1981 【Alto e Diritto // exclusive】【LARGE 1/20】After the rain LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1975 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 1/20】 Michelle LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1988 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 2/20】ミッシェル ミシェル Diana Spencer LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 1/20】ダイアナ妃 ダイアナ妃 ウェールズ公妃ダイアナ Diana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセス  Joe on the Tube LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1981 【Alto e Diritto // exclusive】【SMALL 1/20】 Joe with a roll up LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1980 ジョーストラマー ロンドン 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット ハービー山口 HERBIE YAMAGUCHI 写真家 Thames LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 テムズ川 ロンドン ハービー山口 1983年 イギリス England イングランド 写真家 写真 http://www.herbie-yamaguchi.com/ オリジナルプリント Portrait Joe 地下鉄のジョー パンク Punk 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット  革ジャン レザージャケット ライダースジャケット モヒカン 鋲ジャン 1983年イギリス総選挙 イギリス名誉革命史 United Kingdom General Election, 1983 ハービー・山口は写真家、エッセイスト。 東京都大田区出身。 作家名の由来は、自身が傾倒していたジャズ・フルート奏者のハービー・マンから。山口 芳則 「LONDON AFTER THE DREAM」(流行通信社 1985)「LEICA LIVE LIFE」福山雅治写真集 (ソニーマガジンズ 1994)「代官山17番地」(アップリンク 1998)「尾崎豊」(光栄 1998)「DISTANCE」福山雅治写真集 (アミューズブックス 1999「TIMELESS IN LUXEMBOURG」 (ルクセンブルク大公国大使館 1999)「bridge22 LP」山崎まさよし×ハービー・山口(ソニーマガジンズ 2001)「LONDON CHASING THE DREAM 」(カラーフィールド 2003)「peace」(アップリンク 2003)フジテレビドラマ「優しい時間―富良野にて」(フジテレビ出版 2005)「HOPE 空、青くなる」(講談社 2003)代官山17番地 Eye of Johnny TOKYO / HERBIE YAMAGUCHI 1983 【Alto e Diritto // exclusive】【MEDIUM 1/20】東京 ジョニー Joe on the Tube LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1981 Early Autumn LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1986 1986年 ハービー山口 女の子 農屋 庭 ロンドン North England / HERBIE YAMAGUCHI 2006 2006年 ノーザン・イングランド 北イングランド、または単に北としても知られている北イングランドは、イングランドの最も北の地域です。これは、北東、北西、ヨークシャーアンドザハンバーの3つの統計地域に分割されています。 Jimmy Pursey Sham69 LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 ジミーパーシー 愛知 名古屋 Alto e  James Timothy Purseyはイギリスのロックミュージシャンです。彼はパンクロックバンド、シャム69の創設者兼フロントマンであり、1976年以来、ソロアーティストとしての楽曲のリリースに携わってきました。Yesterday LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1975 Thames London / HERBIE YAMAGUCHI 1984 テムズ川 ロンドン After the rain LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1975 ハービー山口 Eye of Johnny TOKYO / HERBIE YAMAGUCHI 1983 Johnny in the spot light LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 ジョニーロットン スポットライト ロンドン 1983年 撮影 ハービー山口 写真家 Johnny Rotten ジョニー・ロットン John Lydon ジョン・ライドン パンク・ロックバンド、セックス・ピストルズのリード・ボーカルを務め、解散後はパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成した。 ジョニー・ロットンという名前は彼がセックス・ピストルズに加入したとき、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズが彼の歯の汚い状態を見て「腐ってる!お前の歯、腐ってるぞ!(You're rotten! Look at you, your teeth are rotten!)」と発言したことがきっかけで彼のニックネームとなった[1]。 セックス・ピストルズセックス・ピストルズ時代 (1977年) 小学生時代とは打って変わり、中学生からのライドンは退学処分を受けるほどの不良となり、10代後半はマルコム・マクラーレン(デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドが共同経営者)のブティック「Sex」に頻繁に出入りするようになる[3]。この店を溜まり場としていたライドンをリーダー格とする不良グループ“ジョンズ”は、メンバー全員の名がjohnであることから名づけられた。1975年にマクラーレンがアメリカのバンド、ニューヨーク・ドールズとの小ツアーから帰り、スティーヴ・ジョーンズやポール・クックと共に新たなバンドの結成を模索していたとき、ライドンが現れた。ライドンは「I Hate」とサインペンでなぐり書きされたピンク・フロイドのTシャツを着ており、店内でのオーディションでアリス・クーパーの「エイティーン」を歌った[3]。そしてバンドへ加入、バンド名はセックス・ピストルズに決まる。ピストルズは「アナーキー・イン・ザ・UK」や「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」などの歴史的な曲を発表し、パンクの有名バンドとなった。曲は主に、メンバーのグレン・マトロックが書いていた。ピストルズの後期、ライドンは、ヘロイン中毒である親友のシド・ヴィシャスの薬物治療の手助けをするが、結局シド・ヴィシャスはヘロインをやめられずまともに演奏できる状態ではなくなった。メンバー間の不仲も頂点に達し、バンドは最悪の状態になり、1978年1月14日、アメリカツアーのサンフランシスコ最終公演を最後にライドンは脱退を表明。ラストライブの最後に「騙された気分はどうだい」と言い放っている[7][8]。脱退表明時には「ロックは死んだ」と宣言した[9]。後に、シド・ヴィシャスと恋人のナンシーは死亡している。Brian Setzer Stray Cats LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1981 ブライアン セッツァー ストレイキャッツ ロンドン 1981年 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット ハービー山口 HERBIE YAMAGUCHI 写真家 Thames LONDON / HERBIE YAMAGUCHI 1983 テムズ川 ロンドン ハービー山口 1983年 イギリス England イングランド 写真家 写真 http://www.herbie-yamaguchi.com/ オリジナルプリント Portrait Joe 地下鉄のジョー パンク Punk 愛知 名古屋 Alto e Diritto altoediritto アルトエデリット 革ジャン レザージャケット ライダースジャケット モヒカン 鋲ジャン 1983年イギリス総選挙 イギリス名誉革命史 United Kingdom General Election, 1983 ハービー・山口は写真家、エッセイスト。 東京都大田区出身。 作家名の由来は、自身が傾倒していたジャズ・フルート奏者のハービー・マンから。山口 芳則 「LONDON AFTER THE DREAM」(流行通信社 1985)「LEICA LIVE LIFE」福山雅治写真集 (ソニーマガジンズ 1994)「代官山17番地」(アップリンク 1998)「尾崎豊」(光栄 1998)「DISTANCE」福山雅治写真集 (アミューズブックス 1999「TIMELESS IN LUXEMBOURG」 (ルクセンブルク大公国大使館 1999)「bridge22 LP」山崎まさよし×ハービー・山口(ソニーマガジンズ 2001)「LONDON CHASING THE DREAM 」(カラーフィールド 2003)「peace」(アップリンク 2003)フジテレビドラマ「優しい時間―富良野にて」(フジテレビ出版 2005)「HOPE 空、青くなる」(講談社 2003)代官山17番地 「1980年前後のロンドンだった。パンクロックが徐々に影をひそめ、とって代わるように現れたのがニューロマンティックスというムーブメントを掲げた若者たちだった。彼らはデビット・ボーイを敬愛し、衣装やメイクに可能な限りの工夫を凝らし、毎週木曜日の夜に、コベントガーデンにあったクラブ、ブリッツに集まって来た。その彼らをいつしかメディアはBLITZ KIDS(ブリッツキッズ)と呼ぶようになった。彼らの多くはアートスクールに通う学生や、将来ミュージシャンやデザイナーになることを夢見ていた若者たちだった。パンクロックが社会への反抗をアグレシブに表現する形態だとしたら、ブリッツキッズはパンクとは違うニュアンスで、自分の世界観や主張を表現する形態だった。それはアーティススティックでポップで洗練された感覚だった。ムーブメントの初期には彼らは広く世間に名乗り出ることはせず、全く秘密裏にこのブリッツに集まっていた。例えば真冬なのに一晩中入店の列に並んでも、彼らのリーダーであるスティーブ・ストレンジの知り合いでなければ入店は許されなかった。幸い私は、彼らと親しい何人かの友人の導きがあり入店を許されていた。そのことについては感謝の気持ちしかない。彼らの作った音楽はシンセザイザーを多用した未来志向のニュアンスに富み、80年代の中期までに一時代を築き上げた。私は普段モノクロームフィルムで撮影をしていたが、彼らの使う色の大切さを知りコダクロームというカラーフィルムを使用した。当時、私の生活はかなり困窮していて、何人もの友人の家を居候として転々と渡り歩るき、一日3食を規則正しく食べることはほぼ無理なことだった。コダクロームを買う出費は自分にとってかなりの痛手で、このブリッツに赴いても、一晩で20カット程を使うだけで、一枚一枚を大切に撮影していた。デジタル時代の現在なら何千カットと彼らを撮影しただろうが、実情はコダクロームを20~30本程消費したのが精一杯いだった。そんな理由で現在完璧な状態で残っているオリジナルのカラースライドは両手に乗るだけの分量しかない。彼らは陽気に踊って飲んで、ブリッツの夜を楽しんではいたが、中核にいた彼らの一部は将来アーティストに成長するべく、お互いに刺激し合い自分を磨いていたのではないかと思えた。1970年代の中期に始まったパンクのムーブメント、それに続くこのムーブメント。当時のイギリスの若者は多かれ少なかれ、この二つのムーブメントを通過し、洗礼を受けて成長したのではないだろうか。この時代のロンドンが、カルチャー的には一番面白かった時代だったと多くのイギリス人が認める所以だ。事実このブリッツに集まって来ていた若者の中から、数年後には世界的に目覚ましい活躍を始めたミュージシャンやアーティストが数多く排出された。この時代のロンドンの素顔を、写真家として目撃出来たことの幸運を今でも噛みしめるのである。同時代に撮影した風景を折々のページに挟んでみた。当時のロンドンの空気感が伝わればと願っている。」SUPER LABOによるハービー・山口の5冊目の写真集。 東京神保町「SUPER LABO STORE TOKYO」にて、2021年作品の展示。「1980年前後のロンドンだった。パンクロックが徐々に影をひそめ、とって代わるように現れたのがニューロマンティックスというムーブメントを掲げた若者たちだった。彼らはデビット・ボーイを敬愛し、衣装やメイクに可能な限りの工夫を凝らし、毎週木曜日の夜に、コベントガーデンにあったクラブ、ブリッツに集まって来た。その彼らをいつしかメディアはBLITZ KIDS(ブリッツキッズ)と呼ぶようになった。」It was London around 1980. Punk rock was on a slow decline, gradually being replaced by the emerging New Romantic movement and its young advocators. They adored David Bowie, exercised as much ingenuity as possible in costumes and makeup, and gathered at the Blitz club in Covent Garden every Thursday night. The press eventually came to call them the “Blitz Kids














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